「ゴミを捨てる」って、実は「自分の身体を汚す」ことなんだよな
夜な夜なYouTubeで難しそうな講義動画を酒の肴に観ることが増えている(笑)。

酒は完全にやめたからジュースだけどね^^;
あと、前回の記事から昔、釣り雑誌で書いてたみてぇに、もっと俺自身の言葉でストレートに書いていくことにした。その方が俺らしいし、その方が面白いだろ?
やっぱり、素の自分でいかないとダメだな、と。
先日、解剖学者で虫捕り名人でもある養老孟司先生の動画を観ていて、思わず膝を打ったんだ。「あぁ、俺が昔から現場でぼんやり感じていた違和感は、まさにこういうことだったのか!」ってね。
動画のタイトルは「温暖化の原因について」なんてお堅い題名がついているんだが、中身はもっと根本的な「人間と環境の切り離せない関係」の話だった。

説教くさい講義をするつもりは毛頭ない。だけど、水辺で竿を振るのが大好きなみんなと、この「ハッとする気づき」を共有したくなったんだ。少し付き合ってくれよな。
0.2mmの卵子が「自然」を食って、50〜60kgの成人になる
養老先生が動画の中で投げかけた、すごくシンプルで本質的な問いがある。
「人間の始まりって、たった直径0.2mmの卵子(受精卵)だろ? それが育って、50kgや60kgの立派な大人(成人)になる。じゃあ、その増えた50〜60kg分の身体は、一体どこから来たと思う?」
ちょっと考えてみてほしい。答えはめちゃくちゃ当たり前だけど、すべて「自然界(外の世界)」から来ているんだ。
米や野菜は田んぼや畑から。魚や肉は海や川、山から。俺たちは毎日、自然界の恵みを食って、取り込んで、自分自身の身体に変えている。
身体ができる驚きのプロセス
- 人間の始まり = たった0.2mmの卵子
- ↓(田んぼ、畑、海、川の恵みを毎日食べる)
- 今の姿 = 50〜60kgの成人

俺は74㎏だけどなw
しかも医学的には、骨も含めた全身の細胞や物質は、だいたい7年でほぼすべて自然界のものと総入れ替えになるらしい。
つまりさ、俺たちが普段何気なく見ている田んぼや海や山は、ただの景色じゃない。「数年後の自分自身の身体そのもの」なんだよな。
「ゴミを捨てる」とは、どういうことか?
「環境問題」なんて言うと、なんだか巨大で自分とは無関係な“外側の話”に聞こえがちだ。だけど実際は、環境の裏返しは自分自身。
この話を聞いて、俺の頭の中にひとつの言葉が強烈に浮かび上がってきた。
「ゴミを捨てるということは、自分の身体が汚れていくことなんだ。」
「自分の外側にゴミを投げ捨てた」と思っているのは人間の頭(意識)の勝手な勘違いで、身体の循環という事実から見れば「巡り巡って未来の自分の身体に汚れを放り込んでいる」のと何一つ変わりない。
自然を食って50〜60kgの成人になった俺たちだからこそ、環境を汚すっていうのは、自分自身の身体を傷つけているのと同じなんだよな。

ゴミをポイポイ捨てるやつだけ汚くなればいいけど、関係ない人たちまで汚染されちゃうじゃん(# ゚Д゚)
都会という「頭の中の箱」から脱出する快感
もう一つ、俺たちアングラーの心にサクッと刺さる話があった。それが「都市」と「自然」の対比だ。
現代の都会ってのは、すべて人間が「頭(意識)」で設計して作った空間だろ?ビルも道路も部屋の床も、全部計画通り。
都会には「意味のあるもの」しか存在を許されない。
だから部屋にゴキブリが出たら必死で叩くし、意味のない雑草は抜かれる。一定の温度、平らな床、動かない壁。ストレスのない「安心安全」が担保されているように見える。
だけどな、俺たち人間の身体自体は、数億年かけて進化してきた「自然の一部」なんだよ。
四角くて意味だらけの箱にずっと閉じこもっていると、どれだけ快適でも、身体や心がどこか悲鳴を上げ始める。
ここでピンとくるのが、「虫取り」と「魚釣り」の共通点だ。
なぜ俺たちは、休日にわざわざ不便な水辺へ向かうのか?
みんなも経験あるだろ?
休みの日に早起きして、寒かったり暑かったりする湖や川に立って、何時間もルアーを投げ続ける。都会の感覚から言えば「非効率で意味のない行動」かもしれない(笑)。
だけど、それこそが人間の身体が求めている「脱出」なんだよ。
- 頭の設計図が通用しない:自然や魚は、人間の「意識」や「理論」に合わせてくれない。
- 意味のない世界に浸る:風の吹き方、水の濁り、予測不能な魚のバイト。すべてが「計画外」。
どれだけ釣り方のノウハウ本を読んでも、現場の魚はマニュアル通りには動いてくれない。
だから面白いんだろ?
頭の中でこねくり回した理論を一旦捨てて、五感をフルに使って現場の風や水温を感じる。「思い通りにならない自然と対峙する時間」こそが、都市生活で固まった俺たちの感覚を解放してくれるんだ。
エコを押し付ける気はない。ただ、水辺への罪悪感は減らしたいんだ
養老先生は動画の最後で、都会に住む人間が定期的に自然へ足を運ぶライフスタイル(平成の参勤交代)や、子どもたちが「森・里・川・海」の繋がりを感じることの大切さを語っていた。
俺も全く同感だ。やっぱり、現場に出て自然と遊ぶ時間が必要なんだよ。
ただ、ここで俺たちアングラーが一つだけ頭の片隅に置いておきたいことがある。
「自然の中で思いっきり遊ぶ道具が、自然を痛めつける原因になっていたら寂しいじゃないか」ってことだ。
プラスチック(ワーム)を頭ごなしに否定したいわけじゃない
誤解しないでほしいんだが、俺は既存のプラスチックルアーやワームを悪者にして叩く気は一切ない。俺だってこれまで散々お世話になってきたし、あのマテリアルだからこそ獲れる魚がたくさんいるのも知っている。
ただ、根掛かりで水中や湖底に残ってしまったワームが、何十年、何百年も分解されずに残り続ける現実もある。
フィールドに留まった物質が巡り巡って自分に還ってくるのだとすれば、やっぱり水辺を汚すのは自分の身体を汚すことと同じなんだ。
釣りを愛していれば愛しているほど、ラインを切った瞬間に「あぁ、また水辺にゴミを残してしまった…」という小さな罪悪感が胸を掠めるだろ?
俺は、その罪悪感を少しでも減らしたかったんだ。
「命をいただく」からこそ巡る、シカベイトの提案
害獣として駆除されてしまう鹿の皮を譲り受け、職人の手で一つひとつルアーに仕立て直す。
もし湖底に置き去りになってしまっても、それはもともと自然界にあったタンパク質(有機物)だ。時間をかけてゆっくりと自然へと還っていく。
シカベイトが目指す循環
- 山の命(害獣駆除された鹿革)を大切にいただく
- 職人の技で「水辺で魚と対峙する道具」へ生まれ変わらせる
- 水中で命のなめらかな艶めかしさを演出する
- もしラインが切れても、自然界のサイクルへと静かに還る
「地球を守ろう!」なんて大層な看板を掲げるつもりはない。
ただ、「自分=環境」なんだとしたら、自分が大好きなフィールドに対して、少しでも優しく、後味の良い選択肢を持っておきたい。
「自然の命をもらって作った道具で、自然の魚と真剣に遊び、水辺に害を残さない」
これってすごくシンプルで、粋な遊び方だと思わないか?
理屈は置いておいて、まずは現場で竿を振ろうぜ!
いろいろ語ってきたが、難解な講釈を垂れる評論家になるつもりはない(笑)。
型やマニュアル、小難しい理論に縛られすぎる必要なんてないんだ。現場に出て、ルアーを投げて、水中の生命と対峙して、心が揺さぶられる瞬間を楽しむ。それが釣りのすべてだろ?
シカベイトを手にとったら、まずは自由に試してみてほしい。
水を含ませた鹿革が見せる、あの艶めかしいアクションと生命感。魚がたまらず口を使うあの瞬間を体験したら、頭の中のモヤモヤなんて一発で吹き飛ぶはずだ。
自分の身体も、通い慣れたあのフィールドも、全部地続きでつながっている。
今週末も、水辺に感謝しつつ、思いっきり現場で遊び倒そう!

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